●エピソード


1971年


Episode.17 「催涙ガスは霧雨のように降り注ぐ(1971.6.17)」
Episode.18 「駿河台学生会館の鉄柵は崩れた(1971.6.29)」
Episode.19 「三里塚・幻野祭(1971.8.14〜16)」
Episode.20 「連合赤軍幹部に間違えられる(1971.8.31)」
Episode.21 「マップという名の犬(1971冬)」
Episode.22 「大学祭+ストリップ+ブルーフィルム(1971.11)」
Episode.23 「野次馬新聞(1971.12.7)」

Episode.17 「催涙ガスは霧雨のように降り注ぐ(1971.6.17)」

71年の6.15集会には私も参加した。70年安保闘争以降、各党派間の内ゲバは激しさを増し、全共闘系集会でも統一集会が開催されることは困難な状況になってきた。
6.15集会は明治公園で開催されたが、反帝学評は最初から中核派の集会参加を阻止するため、立看板で演壇にバリケードを築いたり、演壇の周りを武装部隊で固めていた。
集会に遅れて、宵闇の中を神宮球場方面から中核派の部隊がデモ行進をしながらやってきた。
先頭に大きな法大全共闘の赤旗と、とてつもなく長い竹さおを数十本林立させて会場に向かってきた。
会場に入ると、中核派は一気に演壇に攻撃を仕掛け、反帝学評はあっという間に会場から追い出されてしまった。
あたりにはビンのかけらが散乱し、その辺りだけ空白の場所ができていた。
全国全共闘の各党派が統一した集会を持つのは、この集会以降なくなった。

6月17日、沖縄返還協定阻止闘争は中核派と第四インター(注1)は代々木公園、 反帝学評やプロ学同(注2)は渋谷の宮下公園で別々に集会を開くことになった。
明大のノンセクト部隊は結局、反帝学評系の宮下公園の集会に参加することになった。
宮下公園での集会が終わり、日比谷公園に向けてデモを開始した。
私が参加していた明大のノンセクトの部隊はプロ学同の赤ヘルの後ろで先頭集団に近いところにいたが、 デモに出てすぐ、渋谷駅付近で目の前が急に真っ赤になった。 プロ学同が火炎瓶を投げている。
すぐに機動隊が催涙ガス弾を発射し、水平打ちの催涙弾がヘルメットの上を跳ねていく。
「頭を下げろ!」と誰かが叫んでいる。炸裂した催涙ガスの粉が霧雨のように我々に降り注ぐ。
機動隊の規制により隊列は分断され、我々のデモ隊も拘束され、わき道に押し込まれた。

★1971.6.17デモ隊に降り注ぐ催涙ガス

「これで逮捕か」と思われたが、機動隊の指揮者は「ヘルメットを脱げ!」と言って、ヘルメット脱がされて全員解放された。
デモ隊は日比谷公園までデモを行っているので、とりあえず、解散地の日比谷公園まで行くことにした。 宮下公園の裏を抜けて渋谷駅方面に行ったが、途中でタクシーが燃やされて大きな音を立てて爆発していた。
何とか地下鉄に乗って日比谷公園までたどりついたが、そこでも、解散するデモ隊と機動隊の小競り合いが続いていた。
6月15日のデモでは私が属していたノンセクト集団のO君が、日比谷公園の入口で逮捕されていた。
O君は旗持ちで、機動隊に旗さおを向けていただけなのに、公務執行妨害で逮捕されたしまった。まったくの不当逮捕である。
この日はプロ学同だけでなく、反帝学評も火炎瓶を投げ、ノンセクトを巻き込んで多くの逮捕者を出した。
私の政治闘争のデモへの参加は、この後ほとんどなくなり、駿河台学生会館を中心とする学内ロックアウト体制解除に向けた闘いに本格的に取り組むことになる。

(注1)第四インター:第四インター日本支部。赤ヘルに鎌とハンマーのマーク。四トロとも呼ばれていた。芝浦工業大が拠点校だった。
(注2)プロ学同:プロレタリア学生同盟。構造改革三派の一つ。当時は緑ヘルから赤ヘルに変わり、ヘルメットに赤色戦線と書いていた。



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Episode.18 「駿河台学生会館の鉄柵は崩れた(1971.6.29)」

1969年10月のバリケード封鎖解除以来、ロックアウト状態が続いていた和泉地区と生田地区の学生会館は、 我々学生会館運営委員会とサークル員の活動もあり、1971年4月に大学側から正式に使用が認められた。
しかし、駿河台の学生会館は神田地区という地理的条件もあり学生運動の拠点となることを恐れた大学当局から封鎖され、 周りを鉄柵で囲まれ、学生が入れない状況が続いていた。
学生会館運営委員会の目標は駿河台の学生会館のロックアウト解除と、自主的な管理であり、 1971年6月29日、駿河台の学生会館前で学館実力開放集会を開催し、 サークル員や入管闘、U部自治会の反帝学評、ブント情況派など100数十名で学生会館の鉄柵を取り外し、入り口のベニヤ板を剥がした。
翌日、大学側は鉄柵を再度設置した。 その後、7月10日頃まで、学生側は鉄柵をのこぎりで切断、大学側は再度、切断された鉄柵を溶接という繰り返しの攻防があったが、 大学側も一旦はあきらめたようで鉄柵の設置もなくなった。
 学生会館には、69年の前半頃まではよく出入りしていたが、ロックアウト後は入ることもできなかったので、 攻防が一段落したのを見計らって、駿河台学生会館の中に入ってみた。
学生会館の中は約1年9ヶ月近く封鎖された状態のままだったため、まるでタイムカプセルのようだった。
2階の中執の部屋には白い粉(粉末消火剤?)が一面に撒き散らされ、ガサ入れ直後のように荒れ果てた状態のままだった。
部屋の扉は壊され、67.68年当時のポスターやビラが床やロッカーの中に散乱していた。
建物の中を一通り見て、壊れた扉から屋上に出た。屋上には雑草が生え、あちこちに水溜りが出来ていた。
屋上の隅に腰を下ろし、タバコを吸いながらしばし物思いに耽った。 どういう訳か、廃墟というのは私の心を落ち着かせる。 荒廃した風景が、当時の私の内面の風景とシンクロしていたのだろうか。
タバコの煙が曇り空に消えていく・・・・・。
8月1日、機動隊が導入され、駿河台学生会館は再度ロックアウトされた。

★1971.8再封鎖された駿河台学生会館



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Episode.19 「三里塚・幻野祭(1971.8.14〜16)」

三里塚幻野祭。 1971年夏、成田空港反対闘争の現場、三里塚で開かれたロック・ジャズコンサートである。 三里塚芝山連合空港反対同盟青年行動隊主催。
1971年2月の第1次強制代執行と9月の第2次強制代執行における東峰での機動隊員死亡事件の谷間のつかの間の 平穏な時期に三里塚に現出した幻の祭。(注1)

丁度お盆の時期なので、学生は皆、故郷に帰ってしまう。東京在住の私は故郷不在で家でぶらぶらしていると思われ、 生田地区のブント情況派に誘われて三里塚へ手伝いに行くことになった。

前日(8月13日)の夜中に車に乗って現地へ向かった。たぶんワゴン車かバスだったと思う。 車の窓から外を見ていたが暗くてどこを走っているのかわからない。 まったく方向感覚がつかめないまま、やっと目的地に着いたが、都会と違い辺りは漆黒の闇の中。
ブント情況派が常駐(?)していた農家の一室にたどり着き、十数人で雑魚寝した。 8月のお盆の時期ということで、暑くてよく眠れなかったことを覚えている。

翌日は会場設営手伝い。コンサートの時は観客への飲食提供ということでカレーライスとジュース(清涼飲料水)を売っていた。
8月14日のコンサート初日、カレーを売っていたら中学校の同窓生S君(現在は某テレビ局の幹部)が買いにきた。 「あれー」とお互いびっくりしたが、ここで会うとは感動的だった。
幻野祭は2日間続いた。私も2日間カレーライスを売っていたが、記憶に残っているのは初日の演奏だけである。 2日目はほとんど記憶にない。 特に、初日の頭脳警察の演奏と婦人行動隊の武田節は憶えている。
最近、幻野祭の実況盤がCDとDVDのセットで発売されたので、買って改めて聞いてみると、 当時こんなにすごかったのかと絶句してしまうようなコンサートである。
青年行動隊と党派の論争、ゼロ次元(注2)のパフォーマンス、フリージャズの演奏、アジテーションなど。 DVDの中で青年行動隊が「ステージのずっと後ろにカレーライスがあります。」という発言をしているが、そこに私がいた。
コンサートが終わり、農家に戻る時、小学生くらいの男の子(少年行動隊)が近寄ってきて 「学生さん、そっちは機動隊が居るから行かない方がいい。こっちから」と案内してくれた。さすが三里塚。
 コンサートも終わり、成田から京成電車に乗って帰る時、 ガラガラの電車の中でホワイトジーンズにカレーの黄色い染みがついてみっともないなと思ったことを憶えている。
三里塚に行ったのは、後にも先にもこの時だけである。
夜の暗闇の中で現地に着き、場所的感覚がつかめないまま、次の日、 夏の光の中で見る三里塚は、私の中では現実的な場所というよりまさに幻野だった。

(注1)三里塚幻野祭のポスターは赤瀬川原平氏がポスターを制作している。このポスターは「桜画報・激動の1250日」(青土社)や「桜画報大全」(新潮文庫) の中で見ることができる。「三里塚で祭れ!三里塚から乗っ取れ!三里塚発第1便ハイジャック貫徹!以下全機奪取せよ!」という過激なコピーであった。
(注2)ゼロ次元:当時、日本で最も過激な儀式集団と言われていた。69年、京大教養学部のバルコニーで全裸儀式を決行。全編全裸の映画「いなばの白うさぎ」製作。 私も、明大記念館でこの映画を見た。

☆CDの解説からの引用
三里塚幻野祭―
1971年、成田空港建設反対運動に揺れるかの地において、熱狂を巻き起こしたイベントの模様を納めたライヴ・アルバム『幻野』
--高柳昌行、高木元輝ら当時の先鋭的なフリー・ジャズメンの貴重な演奏と 灰野敬二率いるロスト・アラーフ、頭脳警察、ブルース・クリエイション、布谷文夫率いるDEWといった 日本のロックに重要な役割を果たすことになるアーティストたちの最初期音源を収録し、 文化が政治に向かってためらうことなくコミットした時代を象徴する貴重な物的証拠として、 今なお日本のロック/ジャズ史上にその名をとどろかしている伝説的作品である。
その『幻野』が、CD2枚+DVD1枚のBOXセットとして、蘇える!
1989年の再発売時には、ロック系アーティストの演奏を抜粋した形での再発売であったが、 今回は全音源をCD2枚組のボリュームで完全収録の上、当時のデザインをも紙ジャケット仕様によりほぼ完全再現。
さらに、青地憲司監督が幻野祭の模様をシューティングしたドキュメント・フィルム『’71日本幻野祭 三里塚で祭れ』 を初DVD化の上で同梱。
当時アルバムをプロデュースした名テレビ・ディレクター今野勉氏の談話、 出演者灰野敬二へのインタビューをはじめ、 貴重な資料・証言を満載した封入ブックレットもともなって、 伝説的な一夜の全貌がここに明らかになる。
日本のロック/ジャズ史上の伝説が、ベールを脱ぐ。32年の時を経て、幻の野が現出する。



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Episode.20 「連合赤軍幹部に間違えられる(1971.8.31)」

三里塚の幻野祭から帰ってきて数日後、自宅に警視庁公安課田中を名乗る刑事から電話がかかってきた。 相手の口調は静かな中にも有無を言わさぬ調子があり、「会って話をしたい」ということだった。
自宅の電話まで知られているということもあり、しぶしぶ同意した。 私の方から「顔を知らないので渋谷ハチ公前交番で待ち合わせましょう。」 と提案し、8月31日に会うことになった。

★渋谷駅前のハチ公(2007撮影)

渋谷駅に着き、ハチ公前交番で「田中さんはいますか?」とたずねると奥の方から刑事がでてきた。 とりあえず近くの喫茶店で話すことになった。

刑事「君が8月6日の広島の反戦集会で統一赤軍結成のビラを配っていたんじゃないかと思ってね」 と言って1枚の写真を取り出した。

その写真を見てビックリ。「何で俺が広島にいるんだ」と思うくらい似ている男 がビラを配っている。
動揺がおさまって写真をよく観察すると別人である。髪型とジーンズが違う。

私「刑事さん。私ではありません。第一髪型が違います。私の分け方と反対です。それに私はブルージーンズを持っていません。 (当時、私はホワイトジーンズしか持っていなかった。)」 と反論したが、今考えると、そんな違いは違いとは言えない。

刑事「それじゃこの写真の中に知っている者がいるか?」
といって10枚程、顔写真を見せられた。だが知っている顔は1人もいなかった。
それから学内の状況などを尋ねられたが、結局、刑事も私が幹部ではないという心証を持ったようで、
刑事「赤軍派の幹部ではないと思うが、もし幹部なら、もうやめろ」
と言って、話(取調べ)は終わった。

私「私の写真をたくさん撮っているでしょうから、私がデモに参加している写真があれば記念にもらいたいのでください。」
と言うと刑事は苦笑いをしていた。

帰りの道すがら、何故赤軍派との関係で調べられたのだろうかと考えた。
1点目、明治大学のU部には、赤軍派の幹部であるかの有名な重信房子さんがいた。 その関係で大学で活動歴の長い私がマークされた。
2点目、1〜2ヶ月前、ある集会で高校の後輩Y子さんと一緒のところを、 公安関係者と思しきカメラマンに執拗に写真を撮られた。
Y子さんは明大U部に在籍していたが、ノンセクトで赤軍派とは無関係(その後ML派の幹部と結婚)だが、何らかの関係を疑われたのかもしれない。
 いずれにしても、公安刑事からの呼び出しはこの1回限りだった。
連合赤軍は、72年2月の「あさま山荘銃撃戦」で終焉を迎えることになる。  



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Episode.21 「マップという名の犬(1971冬)」

マップ(MUP)とは、明治大学新聞(Meiji University Press)の略。
明治大学新聞編集部処分白紙撤回を求める活動をしていた拡大マップ共闘会議という組織があり、 私が属していた学館運営委員会も参加していた。私は、文化部連合会執行部という立場と、 文化サークル連絡会議のメンバーという立場でも参加していた。
当時の資料を見ると、71年の10月の拡大マップ会議には明大新聞編集部、反大学戦線、 文化部連合会執行部、学生会館運営委員会、教育研究会、明大弾圧対策本部、 文学部ゼミナール協議会、入管闘、部落研究会、国事研、フラ研、英字新聞などの名前が見られる。
マップ共闘は8号館(駿河台学生会館は新学館、8号館は旧学館)の1階に部屋を持っており、 1階に出店を出して新聞を売っていた。
そのマップの部屋に。ある日捨て犬がやってきた。 誰かが拾ってきたのか、大学近辺に捨てられていたのか、鼻の黒いかわいい赤ちゃん犬だった。
とりあえず名前を付けることになり、マップ共闘にちなんで「マップ」という名前が付けられた。

★当時の8号館。3階バルコニーに学館解放の旗が翻る。



犬はすぐ大きくなるもので、この「マップ」もすぐに部屋の中を走り回るようになり、皆の人気者になった。 ただ、マップの部屋に入ると、まるで犬小屋のような強烈な匂いがしたが、私は家でも犬を飼っていたので気にならなかった。 犬の嫌いな人はマップの部屋に入れなかったに違いない。

師走の頃、マップの部屋で大きな鍋におでんを作って煮込んでいたところ、 机の上でおでんを狙っていた「マップ」がおでん鍋の中に落ちてしまった。
「キャン!キャン!」という泣き声のする方を見ると、犬がおでん鍋の中で溺れかけている。 数人で引き揚げて床に置くと、ぶるぶるとおでんの汁を跳ね飛ばして、隣の部屋に走っていってしまった。
犬を追いかけ「マップ」の体を拭いたりして遊んでいると、 文連のS君が「このおでんうまいぞ!食べないのか」といって、 「マップ」が溺れかけていた鍋からおでんを取って食べている。
さすがに「そのおでん鍋に犬が落ちた」とは言えなくなり、そのまま黙ってしまった。
「マップ」も翌年にはかなり大きくなってきたので、マップのメンバーの家に引き取られることになった。
  当日、8号館の入り口まで車が来て、尻込みする「マップ」を車に押し込んだ。 車が駿河台の通りから見えなくなると、何とも寂しい気分になった。



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Episode.22 「大学祭+ストリップ+ブルーフィルム(1971.11)」

秋は大学祭の季節。1971年の大学祭では、政治の季節の終焉を象徴するような「性」をめぐる話題がいくつかあった。
1971年の二部駿台祭。10月31日から11月3日まで開催されたが、 駿台祭のパンフレットを見ると11月2日に11号館40番教室で「性と文化と革命!!」というタイトルで オールナイトのイベントをやることになっており、出演はグループX、文化ミュージック、田中小実晶、東郷ケンとなっている。 はっきりとは書いていないが、そこでストリップショーをやるということだった。
会場内に私服刑事が紛れ込んでストリップショーが始まると警察が介入するという噂があったため、 当日、会場内の「警備」(?)ということで、私も会場に入った。

★写真は1971U部駿台祭パンフレット

会場に入ると一応舞台ができており、お姐さんが1人舞台の上に居る。
会場内には結構、人が集まっていたが、暗いので誰が一般の学生なのか私服刑事なのか全然わからない。
しばらく会場内をうろうろしていたが、結局、実行委員会の判断でストリップは中止となり、お姐さんは踊りを踊るだけで帰ってしまった。 会場の観客からは失望の声が上がった。

一方、高校の同級生のT君が法政大学の学生だったので、高校の仲間と一緒に11月20日に法政大学で行われた学園祭を見学に行った。
当日はロックコンサートと深夜映画があり、ロックコンサートでは 、三里塚の幻野祭にも出演していた「頭脳警察」が世界革命戦争宣言など過激な歌を歌い、聴衆を盛り上げていた。
深夜映画は「関東流れ者」(1965年東映)という任侠映画と「鮫」(1964年東映)という時代劇だったが、 映画の合間に16mmの映写機が会場に運び込まれ、 会場内が暗くなるとカタカタカタという映写機の音とともに白黒のブルーフィルムがスクリーンに映し出された。
観客は大喝采で大喜び。 映像そのものは1〜2分の短いものだったので、何回か同じ映像を映していた。

「政治」から「性冶」へ。
72年になると、私が文化部連合会の執行部として関わった和泉祭や駿台祭では、 いわゆる成人映画や日活ロマンポルノが上映されることになる。



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Episode.23 「野次馬新聞(1971.12.7)」

1971年12月、「野次馬新聞」というビラが和泉、生田、本校のクラスやゼミで配られ、大きな反響を呼んだ。
大学の学費値上げを断念(延期)させたと言われている伝説のビラである。
 「学費値上げ決定!だがその裏側は」というタイトルで、翌年4月に予定されていた大学の学費値上げ問題を取り上げたビラである。
学費値上げは新入生から適用になるため、在校生には影響は出ない。 そのため、学費値上げ問題について、いかに学内の関心を高め、議論を盛り上げるかということが我々の課題でもあった。
当時のビラは「○○闘争に決起せよ!」など煽動的文言により埋め尽くされたいわゆるアジビラが一般的であったが、 「野次馬新聞」は、「学費値上げは決まったけれど、われわれの払っている学費が、実はこんな方法で無駄使いされている。 これでいいのだろうか。」と三流週刊誌的書き方で学費値上げをめぐる大学内の無駄使いを暴露するという、 一風変わったスタイルだった。
当時、文連執行部の一員だった私が作成したのだが、変わったスタイルと内容のビラということもあり、 マップ共闘や生田地区の活動家の注目を集め、結構な枚数が刷られて学費値上げに関するクラス討論の材料などとして使われた。
一般の学生や教職員にも興味を持って読まれ話題になったことから、 大学の教授会でもビラの内容について真偽を問いただす騒ぎとなり、結果として学費値上げは見送られた。
1枚のビラの効果に作った本人もビックリというのが正直な感想である。
翌年の駿台祭実行委員会で、学生運動には無縁の理科連の学生から 「普通のビラは捨てるが、これだけはとってある」と言われてとても嬉しかったことを覚えている。

 ※「野次馬新聞」ができるまでの裏話については「伝説の野次馬新聞」を見てください。




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