新宿西口のフォーク集会が新聞の話題になり始めたのは5月。
私も野次馬根性で出かけていった。
確か6月中の土曜日だったと思うが、明大前から京王線で新宿まで行き、
西口広場に出たとたん「なんだこれは!」と思うくらいに人が集まっていた。
★写真は1969.6.28の新宿西口フォーク集会(1969.7.3明治大学新聞より転載)
人ごみを掻き分けて、フォーク集会の後ろのほうで歌を聞いていると、
「○○じゃないか」と後ろから声をかけてくるやつがいる。
振り返って見ると、中学時代の同級生のK君だった。
こちらも「なんだK君じゃないか」と思わぬところでの再開に2人ともビックリ。
お互いの近況など話しているうちに、集会参加者で東口までデモということになり、K君とスクラムを組んでデモをした。
数百名規模のデモだったが、機動隊の規制は受けなかった。白ヘルを被ったお兄さんの車がデモ指揮に指示をしてデモをコントロールしていた。
結局、K君とはその後、一緒にデモに参加するなど「戦友」となり、いまでも付き合っている仲になってしまった。
今はその面影もないが、
あの時の新宿西口「広場」は、政治的な側面を除いても、出会いの場として象徴的な意味を持っていた。
69年12月に日比谷野外音楽堂で糟谷君虐殺人民葬が行われた。
糟谷君とは、佐藤訪米阻止闘争で亡くなった岡山大学の学生だが、
糟谷君が機動隊に殺されたということで、全国全共闘主催の追悼集会が開催された。
当日は集会に革マル派が参加するということで、他の党派がそれを阻止しようと公園内で待ち構えていた。
革マル派が公園内に入ってくると、反帝学評や中核派などとのゲバルトになった。
★写真は12.14で革マル派に突撃する各党派の部隊
しかし、各党派の寄せ集め的な集団と単一組織である革マル派とは、
組織的にも戦術的にも差があり、革マル派が日比谷野外音楽堂に迫る勢いになってきた。
その時、野音の傍に待機していたML派(注1)の部隊が一気に飛び出し、
あっという間に革マル派の部隊が崩れた。
それを機に各党派も革マル派を追撃し、
公園から革マル派を退去させそうになったとき、
機動隊が公園内に入り多くの学生が逮捕された。(注2)
私の高校の同級生T君も、その時、逮捕された。
中学の同級生(新宿西口で再会したK君)も機動隊にこずき回されてひどい目にあったとのことだった。
日比谷野外音楽堂の前にいた私は無事だったが、ML派のゲバルトの強さには関心した。
そのML派も翌70年の6月闘争で機動隊に実力闘争を挑み、あえなく散ってしまった。
★写真は大学院前で警備するML派学生
(明治大学新聞1969.9.18より転載)
(注1)ML派:日本マルクス・レーニン主義者同盟。学生組織として学生解放戦線(SFL)があった。マルクス・レーニン主義というより毛沢東主義に近かった。
赤に白のモヒカンのヘルメット。明大もU部の学苑会はML派が握っていた。
(注2)逮捕:革マル派、全国全共闘系合わせて2000名近くが日比谷公園内で衝突。190名近くが逮捕された。
1969年の12月、新宿歌舞伎町、コマ劇場裏の通りで夜のビラ配りをしていた。
配っていたのはアジビラではなく、歌舞伎町のゴーゴークラブやパチンコ店のビラである。
高校の同級生のT君に誘われたアルバイトである。
★新宿歌舞伎町コマ劇場裏の通り(2007撮影)
コマ劇場の裏の通りの角に立っていると、手配師がやってきて、その日の必要な人数を集めていく。
人数が多いとフーテンの若者があぶれる。
やってくるのは新宿のフーテンと無職の中年のおやじ、それとわれわれ学生。
午後5時から午後11時までやって、時給200円で1200円、即日払い。
当時としては結構いい条件だった。
それもそのはず、歌舞伎町のゴーゴークラブやパチンコ店の宣伝を地元のヤクザが請け負って、
中間マージンを取られても、それだけの時給が保証される。
ビラを配っているところにヤクザがやってきて、「ごくろうさん。これでうまいものでも食いな。」
といって1000円札を貰ったこともある。
ある師走の寒い日、ビラ配りをしていると髭を生やして山高帽にステッキを持った黒服の男が近くのビルに入っていく。
しばらくして、山高帽とステッキはそのままだが、その男が全裸でビルから出て歩いていく。
私は呆然とその男を眺めていたが、しばらくして警察官に抱えられながら、またそのビルに入っていった。
野次馬も結構群がってきて騒然となったが、私は淡々とビラ配りを続けていた。
今、思い起こすと風貌などから、かの有名な秋山祐徳太子(注1)ではなかったかと思うが定かではない。
ビラ配りをしていたのはフーテンが多かった。多くは地方から出てきて東京で何かをやりたかったのだろうが、
自分たちの居場所が見つからず、結局、新宿で野宿するような生活を送らざるを得なかった若者たちだった。
タバコを吸っていると、次々と「タバコちょうだい。」といって、タバコをねだられる。あっと言う間にタバコの箱が空になる。
彼らは妙に優しく、都会の中で生きていく強さはあまり感じられなかった。
「田舎に帰って金持ちになって、ロールスロイスで皆を迎えにきてやるよ。」といって故郷に帰っていった若者もいた。
その後、1970年の後半には、ヤクザによるフーテン狩で、フーテンも新宿から殆どいなくなってしまった。
中年のおじさんも中原中也の詩を口ずさみながら、「暴力学生の言っていることは全て正しい」と真顔で話すような人だった。
新宿という街は不思議な街で、いろいろな人が集まり、いろいろな出会いがある。
ある日、ビラ配りも終えてそろそろ帰ろうかという時、T君が外人の男女と話している。
帰ろうと声をかけると、「この人たちがフイッシュ・マーケットに行きたいので案内してくれといっている。」とのことだった。
フィッシュ・マーケットといえば築地市場。
築地市場は朝早いが、まだやっていない。
そこで、深夜のゴーゴー喫茶で夜を明かし、始発で築地まで行くことにした。
所持金はバイト代くらいしかないので、ゴーゴー喫茶でフィフスディメンションの「アクエリアス」で踊りながらちびちびと酒を飲み、地下鉄の始発で新宿から築地まで行った。
地下鉄から外に出ると、まだ空は暗かった。
私も東京に住んでいながら、築地市場には行ったことがなかった。
まして早朝の市場など、余程のことがない限り行くことはない。
築地市場はさすがに活気にあふれ、裸電球の光が眠たい目に眩しかった。
外人の2人(アメリカ人とドイツ人)は興味津々であちこち動き回っている。
一通り見学が終わって、外人の2人は市ヶ谷のユースホステルに帰るということなので、
T君が在籍していた法政大学を案内することにした。
法政大学には外人のアメリカ女性だけがついてきた。
当時、法政大学にはバリケードが築かれていたので、アメリカ女性から「あれは何だ」(もちろん英語)と訊かれた。
T君が「バリケード」と言っても通じず、首をかしげている。
日本語では「バリケード」でいいのだが、英語の発音では「ブロックエイド」と言わないと通じない。
私が「ブロックエイド」と言うと、「OK」と頷いている。
アメリカ人女性は笑いながら、T君に発音の仕方を教えていた。
(受験勉強の英語が役立ったのはこの頃までで、時とともに単語などは忘れてしまった。)
法政大学の中に入り、サークルの部室からヘルメットを持ち出して全員ヘルメットを被り、
アメリカ人女性のカメラで記念写真を撮った。どういう訳か「共学同」の緑ヘル(注2)。
その後、日比谷野外音楽堂で開催されていた集会に連れて行ったのだが、何の集会だったか覚えていない。
アメリカ人女性からは、米国に帰国後、T君のところに写真と手紙が来たと思う。
新宿歌舞伎町での夜のビラ配りのアルバイトは一ヶ月ほどで終わったが、
今でもコマ劇場裏の道を通ると、69年暮れの新宿の匂いと風景が記憶の淵から浮かび上がる。
(注1)秋山祐徳太子:ポップ・アーチスト。昭和50年、54年の東京都知事選挙に「保革の谷間に咲く白百合」というキャッチフレーズで立候補。当時、ストリーキングなど路上ハプニングも。
著書に「通俗的芸術論」「泡沫桀人列伝」がある。
(注2)共学同:共産主義学生同盟の略。構造改革三派(フロント、プロ学同、共学同)の1つ。緑ヘル。