●伝説の野次馬新聞-誕生秘話-

 エピソード23を読んでいただけただろうか。
野次馬新聞の話はそこに簡単にまとめてある。この章では、野次馬新聞が誕生するまでの裏話を書いてみたい。
自分で作っておきながら「伝説の」という文言を付けるのはおこがましいかもしれないが、まあ読んでください。

1 小西ゼミ
私は商学部に在籍していた。3年になるとどこかのゼミに入らなければならない。しかし、入学以来、学生運動を続けてきた身にとって一般的なゼミに入ることは躊躇された。
その頃、414B統一戦線や学生会館解放運動で一緒に活動していた同じクラスのN君から「小西善治教授のゼミに入ろう。」と誘われた。
N君によると小西教授は反体制派の有名な教授で、ゼミのテーマは「計画経済」を勉強することになっていた。
当時、同じ商学部で学生会館解放闘争に関わっていたN君と私、それとT君が小西教授のゼミに申し込んだ。
(小西教授は「ロシア・ナロードニキのイデオローグ」(現代思潮社)などの著書がある。)
ゼミの学生は我々3人とベ平連のK君、あと1〜2名いたような記憶があるが、10名に満たない人数だった。
ゼミでは「学生運動をしていない者は去れ。」というような雰囲気であり、また小西教授が反日共系ということもあり、民青系学生はいなかった。

★写真は小西ゼミのテキスト


テキストは一応「情報科学方法論の史的展開」という冊子だったが、実際のゼミではマルクスの「経済学と哲学に関する草稿」(経哲草稿)英語版を使って講義が進められた。
小西教授によると、日本で出版されている「経哲草稿」は共産党系の青木書店が出版しており、その訳は間違っているということで、 当時のソ連(ソヴィエト社会主義連邦共和国)のマルクス・レーニン研究所発行の本を英文で読むことになった。(その後、ドイツイデオロギーやレーニン全集の英語版も買うことになる。)
 「経哲草稿」は日本語で読んでも「対象的本質存在」など難解な文言が出てくるので分かりづらいが、英文だとそれ以上に分からない。我々は事前の予習などしていかないので、「経哲草稿」もなかなか先に進まない。
 我々の勉強不足で講義が進まないためか、小西教授はゼミの合間に大学内の四方山話をすることになる。 「大学はいいかげんだ。何故それを追求しない。学費値上げ反対闘争をなぜやらない」と教授にはっぱをかけられる。  小西教授は69年の大学院徹底抗戦組にアドバイスした話や、大学内のスキャンダル、共産党系教授のいいかげんさなどを話してくれた。

★写真は69.10.9大学院徹底抗戦組(69.10.16明治大学新聞より転載)



2 野次馬新聞発行
そんなこともあり、1971年の12月、学費値上げが決まろうとしていた頃、小西教授から聞いた話をビラにすると面白いということに気づき、小西教授には内緒で原稿づくりを始めた。
まず、どのような形でビラにするのかを考えたが、いわゆるアジビラはもううんざりするほど書いてきたので、遊び心を活かした「野次馬新聞」というタイトルのビラを作ることに決めた。 「野次馬」の名前は、当時、赤瀬川原平さんが朝日ジャーナルで連載していた桜画報に出てくる野次馬軍団からとった。 発行元は私1人ではあるが「野次馬軍団明大細胞」とした。 内容は「学費値上げ決定!だがその裏側は?」という見出しで、小西教授から聞いた大学教授の経費の無駄遣いの話を週刊誌的に暴露するものとした。
最初にレイアウトの下図を作り、下図の文字数に合わせて原稿を書き上げた。 当時、ビラを作るのには「謄写版」を使用した。ロウ原紙をガリ版の上に乗せて鉄筆で原稿を書き(ガリ切り)、「謄写版」にロウ原紙を貼り付けてローラーにインクを付け、ワラ半紙に刷る。 普通は黒又は青一色だが、たまに二色刷りにすることもある。ガリ切りも何種類かの鉄筆を使って仕上げる。 力の入れ具合で、印刷が薄くなったり、刷ってもすぐに切れてしまったりこれもなかなか経験が物を言うしろものだった。
ビラ刷り作業はムスケルと呼ばれていて、学生活動家の基本でもあったが、同じクラスのN君はこれがうまかった。 手順としては@謄写版の下にワラ半紙を置き、右上の隅を輪ゴムで押さえる。A右手にローラーを持ち、インクをよくこねて、ローラーにインクがまんべんなく付くようにする。 B右手のローラーで謄写版を押して刷る。C左手の親指にはめた指サックで、刷り上ったビラを取る。 N君は自称「人間輪転機」と称して、この作業を実にすばやくこなしていた。
さて、「野次馬新聞」のビラだが、文連の部屋で試しに50枚程度刷ってみた。 ビラの反応を見るため、部屋の中に居た文連委員長のY君などに見せると、笑って「なんだこれは」と言っているが、何となく冷たい雰囲気。
「通常のアジビラのパターンではないので、やはりダメか」と思ったが、せっかく刷ったので、8号館1階のマップ(明治大学新聞学会)の部屋にもビラを配り、それで終わりにするつもりだった。

3 思わぬ反響
文連の部屋に戻ってしばらくすると「このビラを作ったのは誰だ!」と文ゼミ協(文学部ゼミナール協議会)の大男が駆け込んできた。 「こんなふざけたビラを作るな!」と言われるのかなと思ったら大間違い。 「明日からの学費値上げに関するクラス討論でこのビラを使いたいから、あるだけもらいたい。」とのことだった。

★写真は野次馬新聞第1号


原紙はまだ謄写版に貼ったまま(当時はビラを刷り終えても、次に刷るまで原紙は貼り付けたままにしていた。)だったので、その原紙で800〜1000枚程度刷っただろうか。 (一定数以上刷るとガリ刷りの限界があり、文字の部分が切れてインクが滲み出し刷れなくなってしまう。)
やれやれと思っていたら、翌日、ブント情況派のY氏から電話があり、「生田でも野次馬新聞を配りたいので、今日中にビラをもらいたい。」とのこと。 しかし、「第2号の原稿を書かなくてはならないし、野次馬新聞の原紙はすでにないので、再度、ガリ切りをしなくてはならない。」と伝えると、 「生田から手伝いを派遣するので、なんとかしろ。」とのこと。
しばらくすると、女学生が文連の部屋に尋ねてきた。そこで、彼女にガリ切りの方法を教えて原紙を書かせ、何とか生田版「野次馬新聞」を刷り上げた。  (ガリ切りは、書いた本人の個性が出るもので、オリジナル版生田版を見比べて欲しい。)
 野次馬新聞第1号は1971年12月7日(火)に発行、その後12月10日(金)に「裏口入学をめぐる著名な教授たちの動向」というタイトルで第2号、 12月15日(水)に「今だから話そう。教授の出世法」というタイトルで第3号を発行し、4号は予告をしながら残念ながら発行しなかった。  その間、12月13日(月)の学生会学生大会で野次馬新聞2.5号というビラを学生大会用に配ったが、これはブント情況派のY氏の要請によるもので、典型的なアジビラだった。 (野次馬新聞の名前を貸しただけのビラでした。)
 このように学費値上げのクラス討論を中心に、全学的に数千枚の「野次馬新聞」がまかれた。
 野次馬新聞第1号を発行して1週間後、学費値上げは12月14日(火)の大学理事会で見送りとなった。

4 講師からの手紙
さて、12月17日(金)、野次馬新聞発行後の最初のゼミの時に小西教授が入ってくるなり、 ビラ(野次馬新聞)を振りかざしながら「これを書いたのはおまえらか!」と大声で叫んだ。
ゼミの皆が一斉に私の方を見たので、小西教授に内緒で作ったのはまずかったかなと思いながら「はい・・」と返事をした。
小西教授はカバンの中から1通の手紙を取り出し、若手の講師からのものということで、読み始めた。 「大学内で野次馬新聞というビラがまかれています。教授会で野次馬新聞の内容が取り上げられ、その真偽が議論されています。 学費値上げは先送りされそうです。小西教授が計画して仕掛けたのではないでしょうか。講師は皆、拍手喝采して支持しています。」という内容だった。
それにはゼミの皆も私もビックリ。野次馬新聞が学費値上げを見送りさせたとは。実力闘争でなくとも違う方法で状況を変えられたことに力つけられる思いがした。

5 その後
小西教授のゼミは、教授の都合で72年の後半はほとんど休講状態となった。 教授からは「皆には優をやるから心配するな」といわれていた。
 1973年、教授のゼミを取る学生がいなかったこともあったのだろうが、我々が卒業する年に小西教授は北陸の金沢大学に移ってしまった。
卒業後、数年たって、某明治大学教授と話す機会があり、私が小西教授のゼミ生と知ると、 教授から「小西先生が亡くなられたのはご存知ですか?」と聞かれた。久しぶりに聞いた小西教授の名前に、私は「そうですか・・・」と答えるしかなかった。
思えば、小西教授が明治大学を去ったのも野次馬新聞発行の黒幕と疑われたことが原因かもしれない。(小西教授すみませんでした・・・。発行の責任は野次馬新聞主筆の私にあります。)
でも、小西教授から聞いた大学内の話がなければ野次馬新聞は誕生しなかったことも事実である。
「野次馬新聞」は発行者である私の予想をはるかに超えて、多くの学生や大学関係者に読まれ、 実力闘争ではなしえなかっただろう授業料値上げ延期を実現させた。
まさに「ペンは剣より強し」というところか。

明大新聞(1972.1.6)に掲載された野次馬新聞の記事です。 野次馬新聞記事



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