●エピソード


1972年

Episode.24 「御茶ノ水界隈飲み屋・ラーメン屋・喫茶店(1972)」
Episode.25 「入学式のビラ(1972.4)」
Episode.26 「文連と映画の関係(1972春)」
Episode.27 「駿台祭&立て看板(1972.11)」
Episode.28 「駿台祭深夜映画&屋台ラーメン(1972.11)」
Episode.29 「 最後の文連合宿(1972.11) 」
Episode.30 「 終章 」

Episode.24 「御茶ノ水界隈飲み屋・ラーメン屋・喫茶店(1972)」

私がよく通った飲み屋は、駿河台下の「ニュー浅草」と人生劇場というパチンコ屋の傍の「四国屋」だった。 これ以外の店に入った記憶はあまりない。
当時はほとんど授業にも出ずに、4号館1階の文連の部屋や8号館1階のマップ共闘の部屋に居たのだが、夕方 になると赤提灯を求めて飲みにいった。

★写真は「四国屋」のメニュー

文連のM君が非常に酒好きな人で、よく文連の仲間と連れ立って飲みに行き、安い日本酒を飲みながら様々な話をしていた。
両方の店には卒業してからも何回か飲みに行ったが、今はもう無くなってしまった。
ほとんど毎日のように行っていたラーメン屋は8号館の通りをはさんで反対側にあった「味一」。 ラーメンが60円、タンメンが70円くらいだったと思う。私が食べるのはタンメンが中心で、たまに中華丼を食べることもあった。
「味一」の裏側の日大病院寄りにもラーメン屋があり、そこにも食べに行ったが、店の名前を思い出せない。
記念館の下の師弟食堂にも行ったが、カレーくらいしか食べた記憶がない。
喫茶店は8号館から御茶ノ水駅に向かう途中にあった「丘」と「田園」である。
当時はやりの名曲喫茶であるが、結構大人数が入れることもあり、待ち合わせ場所や会議室代わりに使っていた。
ここに書いた店は、今はすべてない。駿河台学生会館も旧学館(8号館)も4号館もない。(注)
1970年当時を思い起こさせるのは、山の上ホテルの周辺だけである。
山の上ホテルの前から、記念館を建て替えて出来たリバティータワーを見上げると 「あれから35年」経ったという時の長さを改めて実感(体感)するような何ともセンチメンタルな気分になる。

しかし、現実は目まぐるしく変遷しても、あの時代の自分は私の心の中に生きている。

★写真は山の上ホテル近辺から見上げたリバティータワー(2007撮影)

(注)当時の記念館周辺の様子は、「日本春歌考」(1967年松竹・大島渚監督)の中で、建国記念日反対の黒い旗を持ったデモ隊が山の上ホテル方面から記念館と4号館 の間の坂を下ってくる場面で見ることができる。荒木一郎主演。



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Episode.25 「入学式のビラ(1972.4)」

文化部連合会執行部で明大の入学式にビラを配ることになった。
普通は文連という組織でビラを1種類作るのだが、その時は文連執行部の一人ひとりが1枚ずつビラを作ることになった。
文連執行部は学館闘争を闘ってきた各サークルの集まりである「文化サークル連絡会議の構成メンバーが中心となっていたが、思想的に統一された組織ではなかった。 もちろんどの党派にも属していなかった。
72年の執行部は、委員長が教育研究会のY君、副委員長が社会思想研究会の私と詩吟部のY君、、会計局長がYMCAのK君、会計局次長が英字新聞のH君、 事務局長が文学研究会のM君、事務局次長がマスコミ研究会のS君、企画局長が雄弁部のY君、他にESSのU君などというメンバーであり、元中核派や元ML派、私のようなノンセクト、 特に積極的に活動はしてこなかった者など様々であり、議論していてもなかなか意見がまとまらない。
そんなこともあり、それぞれ個々人の考えや主張を新入生にビラを配って伝えようということになった。
私は「恐怖の逆さま人間」というタイトルで、大学の管理体制に絡めとられて本当の自分を見失わないよう訴える内容のビラを配った。
残念ながら手元に残っていないので、文面は覚えていない。
一人1種類のビラのため、枚数はそれほど刷らなかった(1人500枚程度)。
入学式が行われる武道館へ通じる歩道には、各党派や大学関係者、関連業者などがずらりと並んでビラやチラシを配っている。
ビラやチラシが多すぎてビラを差し出して待っていても受け取るような状況ではないため、新入生の腕の中にビラを押し込んでいく。
30分もかからないうちにビラはなくなった。
ビラを配ったのはよかったが、果たして何人が読んでくれただろうか?



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Episode.26 「文連と映画の関係(1972春)」

もともと映画が好きだったからという訳ではないのだが、文化部連合会の活動として何回か映画の上映会を行った。
最初は1972年春、和泉校舎で行った新入生歓迎の映画会である。
当時のメモを見ると『文連の春休み合宿で、それまでの文化サークル連絡会議運動、文化部連合会運動を総括する中から、 文連の運動として@「文化」的問題を考えていくA学館問題を考えていくという2つの大きな問題が提出された。 @の手始めとして新入生歓迎の映画上映を行った。「肉弾」(1968年ATG・岡本喜八監督)を選んだ理由は偶然的なものである。 映画は戦争という死と背中合わせの状況の中で、主人公と「うさぎ」(大谷直子)の悲劇的な関係を描いたものであるが、 この映画の中で本当の敵は誰だったのか、それは国家であったというモチーフを新入生に分かってもらいたかった。』ということが書いてある。
和泉の第二校舎で上映したのだが、結構、参加者も多く好評であった。

★写真は和泉校舎2号館(2007撮影)

この「成功?」に気を良くして、6月の和泉祭でも本校文連主催の深夜映画を企画し上映することになった。
文連として大学祭にどう関わるのか、あるいは時間制ロックアウトに代表される学内状況の中で映画上映の位置づけをどうするのかという議論もあったが、 和泉祭実行委員会からの要請により興業的なものとして割り切って深夜映画の企画上映を行うことにした。(後で批判を浴びる)
なにせ予算(たぶん10万円位だったと思う)が限られている中で、映写機と映写技師付で映画5本を借りるのだから映画の選択が難しい。 私と事務局長のM君でいろいろと考え、メインの映画は当時の我々の心境を反映して「人類学入門」と決めた。
しかしある程度名前の通った監督の映画は高い。あと4本の映画をどうするかということで、M君と一緒に映画の配給会社まで出向いて交渉することになった。
配給会社の担当者との話しの中で、「人類学入門」に関連して若松孝二監督の作品を希望したが折り合わず、少しは政治性のあるピンク映画ということで、向井寛監督の作品に落ち着いた。
上映した映画は『“エロ事師たち”より「人類学入門」』(1966年今村正平監督)「濡れにぞ濡れし物語」(1972年向井寛監督)他である。
この時の映画の宣伝文句は次のとおり。

<何処かへ逃げたくても逃げられるところがあるわけじゃなし、一緒に逃げてくれる女も居ないし・・。こんな悪い夢を見た朝は、豆腐の味噌汁で顔を洗って光り輝く街に出て行こう。 俺たちの現在を映画にするとこんな具合になる。「エロ事師たち」・・>

上映当日、会場は男女入り混じって大盛況。
私は受付にいたが、体育会の学生が一升瓶を持ち込んで中で騒ぐし、女学生がどこかを触られたといって泣いて出てくるし、受付付近で体育会の学生と左翼系学生が喧嘩をして仲裁に入ったり、大変でした。
上映終了後、会場内に入ってビックリ。会場内は酒の空き瓶とゲロと食べ物のごみでひどい状態。大学生のマナーの悪さを改めて実感ましたね。
仕方ないので何人かでごみを集め、モップで床を拭いたりして何とか元通りに。
上映会そのものは予算の倍くらいの利益(10万円ほど)があったので、文連内で利益の使い道について話し合い、 結局、三里塚で機動隊と渡り合っていたK君の提案により、三里塚の映画を撮っていた小川プロダクションにカンパすることになった。
 映画の利益は映画を作る者の手にということでしょうか。
 



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Episode.27 「駿台祭&立て看板(1972.11)」

文連執行部として72年秋の駿台祭に関わることになった。
駿台祭の実行委員会は、我々文連と体育会、理科連、体同連の4団体が中心となって構成していたが、文連からは副委員長のY君、同じく副委員長の私と事務局長のM君が参加した。
副委員長のY君は駿台祭実行委員長となったが、翌年の駿台祭でも実行委員会副委員長として活躍している。
 私が所属していた企画部は12名で構成され、企画部長は雄弁部のY君だった。 駿台祭テーマ「仇花奔りて仇花」を考えたのも彼だった。

俳優の原田芳雄のような風貌とは裏腹に頭の中は非常に文学的(?)な学生で、駿台祭のパンフレットの企画案内を書いているのだが、 日ごろの言動でも、そのあまりにも文学的な表現に戸惑ってしまうような学生だった。(実物の原田芳雄も駿台祭のコンサートで歌を歌った。)
私といえば企画会議に参加して、企画部員から出される企画案に注文を付けたり、意見を言ったりしていたが、ある時、生田の学生から 「生田にいた学生で、面白い漫才をやっているやつがいるのだが、大学祭でどうか。」と提案があった。
その時は見送りになったが、その学生は明治大学工学部に在籍していたことのある、のちの「ビートたけし」である。そんなこともあった。

 ところで、私の役割は情宣活動、つまり立て看板作成だった。
大学に入ってすぐに立て看板を作り始め、決してうまい字ではないのだが、多くの立て看板を書いてきた経験を買われたのだろう。
駿台祭宣伝用のベニヤ48枚張りの巨大な立て看板を作り、記念館前の通り沿いに掲示することになった。
 情宣のためには駿台祭の1週間ほど前には掲示しなければならない。
また、かなり大きいものなので置くところもないため、立て看板の組み立てから模造紙張り、文字書きまで1晩で行い、次の日の朝には掲示する必要があった。
空模様を見て、雨の心配がない日の夕方から作成を開始した。
組み立てと模造紙張りはさすがに1人ではできないため、実行委員長のY君に応援を頼み、記念館前の広場に立て看板を並べた。
 どうやって書くか考えていると、ちょうど学生課の課長が通りかかり、「あまり過激な内容にはしないでくれよ」と言われた。
 看板が大きいため、全体のバランスを取るのが難しい。また、失敗が許されないことと、記念館前に掲示し、大学祭の顔のような看板なので、 ある程度見栄えのするものでないといけない。
 かなりのプッレシャーの中で、慎重に文字のバランスや大きさなどを考え、書きながら遠くから眺め、また書き始めるということを続けて何とか徹夜で書き上げた。 早朝、Y君が顔を見せたので、最終仕上げに雨よけのビニールを張って記念館前の柵に針金で固定した。
 通りの反対側から眺めると、もっとこうやればよかったとか、あそこは失敗だったとか不満も残った。 しかし、通勤の人たちが皆、看板を見て通っていくのでうれしくなったことを覚えている。

数日後、朝起きて新聞を見ていると、朝日新聞の朝刊の社会面に私の書いた看板の写真が載っていて、ビックリ。 思わず目が釘付けになってしまった。
新聞記事は「日の目みた日活ポルノーただし大学祭でー」という見出しで、大学祭での日活ロマンポルノの上映に関する記事だった。
この年の12大学(明治、慶応、学習院、立教、日本女子大など)の大学祭で延べ30本前後が上映されるということで、大学祭の関係者や映画関係者への取材で構成されていた。
その記事の写真に「明治大学の駿台祭に出された立看板」ということで、私の作成した看板が載っていた訳である。
記念館前の道路沿いにでかでかと「日活ロマンポルノ」と書いた看板があったので、新聞社の目に留まったのだろう。
そのお陰もあって、日活ロマンポルノの映画上映は大盛況。午後の3時からということもあって、女学生も沢山見に来た。
この時の上映作品は「セックスライダー濡れたハイウエイ」(田中真理主演)「女学生レポート夕子の白い胸」(片桐夕子主演)「濡れた唇」(絵沢萌子主演)の3本。
この看板の写真は朝日新聞以外にも、いろいろな雑誌に掲載されて、ピンク映画関係の雑誌にも載っていたようだ。
立て看を書いて4年、少しは努力の甲斐があったかな・・・・

★写真は深夜映画会用に作成した看板



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Episode.28 「駿台祭深夜映画&屋台ラーメン(1972.11)」

駿台祭関係のエピソードをもう一つ。
駿台祭では日活ロマンポルノの他に深夜映画を2日間上映した。
私が駿台祭の実行委員であることを知って、高校の同級生のT君から深夜映画の時に屋台でラーメンを売らせてくれないかという話があった。

★写真は大学祭での記念館中庭の風景

彼はラーメン店でアルバイトをしていたこともあり、ラーメンを作るのはお手の物。
彼は法政大学の学生だが、高校の同級生である明大生のN君とI君、成蹊大学の学生であるN君の4人が手伝うという。
実行委員会の会議の席上、深夜映画で1日、ラーメンの屋台を出すことを提案。
実行委員会委員にはラーメンを半額で提供する条件で了承された。
 当日の出店は屋台ラーメンとカップヌードルの販売だったが、カップヌードルは早々となくなってしまい、屋台ラーメンは行列ができる程の人気となった。
ラーメン店と同じようにダシをとって作っていたため、スープの味はよかった。
屋台ラーメンは大人気でけっこう儲けも出たようで、彼らは二匹目のどじょうを狙って、 儲けをN君の成蹊大学の学園祭につぎ込むことになった。
 後で聞いた話では、インスタントの「肉うどん」を仕入れて成蹊大学の大学祭の深夜映画上映の時に販売したが、 映画を見る観客が少ないことや、「肉うどん」が不味かったこともあり、大量に売れ残って儲けが吹っ飛んでしまったとのこと。
 私もN君の自宅で売れ残った「肉うどん」を食べたが、紙を食べているようで食べ物とは思えないくらい不味かった。

さて、当日の深夜映画の上映作品は
「野良猫ロックセックスハンター」(1970年:長谷部安春監督・梶芽衣子主演)
「遊び」(1971年:増村保造監督・関根恵子主演)
「可愛い悪女」(1971年:井上梅次監督)
「波止場女のブルース」(1970年:斉藤耕一監督)
「女売り出します」(1972年:森崎東監督)
の5本だった。
立ち見が出るほどの盛況で、私も95番教室の扉付近で見ていた。
「野良猫ロックセックスハンター」の中で梶芽衣子が仲間を助けるため、暴力団組織の事務所に乗り込み、 火炎瓶を投げる場面では活動家連中が一斉に拍手喝采したり、 「遊び」の中で関根恵子とチンピラの青年が電柱の傍で話しをする場面があり、 電柱に貼ってある「沖縄返還協定阻止」のビラが映ると、党派の学生が「異議なーし!」と大声で叫んだり、 映画を見るというよりは集会に参加しているような雰囲気だった。
 ところで、駿台祭の収支だが、実行委員会会計局長である体育会のF君が、 「駿台祭を黒字にして、実行委員会で打ち上げをやろう」という目標を立てて営業活動をしてきたことや、 映画上映などの有料の企画が当たったこともあり、かなりの額の黒字となった。
その黒字は盛大な打ち上げで1晩でなくなった。



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Episode.29 「 最後の文連合宿(1972.11) 」

駿台祭も終わり、文連活動も終盤に差し掛かった11月中旬、翌年早々に予 定されている文連総会に向けて文連活動の総括をするための合宿を行うことになった。
 一方、大学当局は72年からの学費値上げを見送ったこともあり、73年から再度、学費値上げに向けた動きを進めていた。
合宿を行うにあたり、文連執行部内から「合宿は中止して東京に留まり、学費値上げ阻止に向けた活動を行うべきだ」という意見が出た。
 私とM君は「我々のこれまでの文連活動をきちんと総括するために合宿を行うことが重要」と主張。
合宿推進派と合宿反対派、中間派に分かれての激論となったが、最終的に合宿反対派の急先鋒であった渉外局長であるH君が東京に残り、 他のメンバーは合宿に行くことになった。

 合宿は2泊3日で石川県の金沢市と能登半島の輪島に泊まる日程だった。
最初の宿泊地金沢では、市内の民宿に泊まった。民宿に着いて部屋に案内され、民宿のおばさんや家族と世間話などして、 とてもなごやかな雰囲気だった。 夕食が終わり、部屋で文連活動の総括について議論をして寝た。
翌朝、朝食を部屋に運んでくる民宿の人たちの様子が昨日とは打って変わってよそよそしい。
チェックアウトしてから皆で考えると、昨晩の総括の議論の中で過激な学生運動用語が出てきたため、 それを聞いた民宿の人たちが警戒したらしいという結論に達した。
72年は連合赤軍が浅間山荘で銃撃戦を行った年でもあり、話を聞いただけで過剰な警戒心をもたれてしまったようだ。
翌日の輪島の民宿は別棟になっていたこともあり、金沢でのようなことはなかった。
さて、文連の合宿も終わり帰ることになったが、M君から「文研の女学生の実家が能登半島にあるので、そこに泊めてもらい、もう1泊していこう。」という提案があった。
私とM君と数人が同調していくことになったが、なにせノーアポ゚で泊まろうというのだから泊まれるかどうか不安だった。
輪島から電車に乗って、バスに乗って住所を頼りに女学生の実家になんとかたどりついた時はもう夕方になっていた。
昔からあるような立派な家だったが、M君が訪ねてきた理由を説明すると、迷惑がるわけでもなく暖かく迎えてくれた。
泊まるだけでなく、食事の時は地酒も飲ましてもらい、酔っ払ってしまった。

帰りはそれぞればらばらに帰ることになり、私は金沢から東京まで特急電車で帰ることになった。
駅の売店でワンカップ2本とつまみを買って、電車でワンカップを飲んでいたら同じボックス席に座っていたおばさんが話しかけてきた。
「最近の若い人で日本酒を飲んでいる人を見るのはうれしい。」ということだった。
おばさんは造り酒屋の人で東京の息子に会いに行くところということだった。
ワンカップを飲み終わると、あばさんが自分が持ってきた4合ビンの地酒を出してワンカップに注いでくれた。 もちろんワンカップ大関より旨かった。
そろそろ東京に着こうかという時に、おばさんが荷物の中から富山のマス寿司と清酒の4合ビンを出して「 お土産にもっていきなさい。」と言った。
 「これは東京の息子さんへのお土産ではないですか。」と断ったが、どうしても持って行って欲しいということで、頂いた。
マス寿司と地酒は帰り道にある中学の同級生のK君の家で全部なくなった。

丁度、我々が合宿をしている時に、マップ共闘のメンバーが明大中野高校で開かれていた全学教職員集会を阻止しようとして、 全員逮捕されてしまった。
当時の学内運動を主導していた中心メンバーの多くが逮捕されたことによる混乱の所為か、 その後、大学内では和泉、駿河台における校舎の破壊活動などが頻発する。
そして、駿河台新学生会館、旧学生会館(8号館)、4号館は翌73年初頭にはロックアウトとなった。
私を含めた72年文連執行部は、72年後半からは次期執行部や文化サークル連絡会議の体制整備を行いつつ、73年2月17日の文連総会を最後にその活動を終えた。
卒業後、皆、それぞれの道を歩んでいくことになるが、72年文連執行部(東京で集まれるメンバー)は年1回の同窓会を今でも続けている。



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Episode.30 「 終章 」

1969年から1972年まで、1人の明治大学生として、学生運動や文化部連合会の活動に関わってきた私的な体験をエピソードという形でまとめて見ました。
まだ書き足りないところもありますが、ホームページの更新の時に随時追加していきたいと思っています。
私にとって、あの大学4年間の出来事は、今までの人生の中で特別な重みをもっています。 大学卒業後も私の生き方を支えてくれた1本の柱のようなものというと言い過ぎでしょうか。
当時は時代とともに疾走していくという感覚がありました。しかし、実際には、そんな個人的な想いとは関わりなく、あの時代は去ってしまいました。

ホームページ作成を機会に、あの時代をこのように文書化してみると、懐かしいような悲しいような不思議な気持ちになります。
1970年前後の時代が私にとってどのような意味を持つのか、まだ明確な答えは出せません。
しかし、今、この時代を生きていくにあたって、1970年前後のあの時代の持つ意味にこだわり、問い続けていくことは必要なことと思われます。
当時、出会い別れていった多くの人たちを想いながら私の心を過った一つの言葉があります。

「あの時代(とき)の君に逢いたい・・・」




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