●エピソード


1970年

Episode.12「デモに行くには電車に乗って」 1970.1
Episode.13 「内ゲバの余波 ―女学生救出―」 1970.5
Episode.14 「明大全共闘は何処へ・・・ 」 1970.前半
Episode.15 「70年安保闘争の終焉」1970.6.23
Episode.16 「本当の闘いはここから始まった」 1970.7〜12
Episode.17 「アルバイト先でもストライキ」1970年 冬

Episode.12 「デモに行くには電車に乗って」 1970.1

集会やデモへは当然のことながら電車を利用していた。
出発する前に和泉校舎の中庭で集会を開き、その後、隊列を組んで京王線「明大前」駅に向かう。 甲州街道には歩道橋があるのだが、大抵は旗で車を止めてデモをしながら通っていく。
駅前で旗をたたみ、旗竿を分解して旗で包んで何本かまとめて2人で肩に担いでいく。
電車にはもちろん切符を買って乗る。(切符を買わないで、そのまま入ってしまう党派もいたが・・・)
改札を入っても隊列を組んで旗竿を担ぎ、笛に合わせながら「○○粉砕 闘争勝利」と言いながらホームまで進む。
電車が来てドアが開く。
乗客が降りたのを見て、デモの指揮者が笛を吹くので、それを合図にドアの横から旗竿を持ち上げながら一気に滑り込ませ、網棚に載せる。
当時は新聞などが全共闘系学生を「暴力学生」などと書いていたため、電車に集団で乗り込んで網棚を占領しても乗客は黙っていた。
確かにヘルメットを被って、タオルで覆面をした集団が乗り込んでくれば私だって黙っていると思う。
しかし、そんな格好をしていても、我々は結構常識的な面もあった。
70年の1月、文京区の礫泉公園で集会があり、そこに向かうため地下鉄丸の内線に乗った。
途中でマル戦(注) の学生が乗ってきたので、珍しいこともあり、じろじろと眺めていると、ヘルメット集団で満員の電車にためらうこともなくおばあさんが乗ってきた。
私と数人(もちろん立っている)が席に座っているヘルメット姿の学生に「席を譲れよ」と言うと 「俺、疲れてるんだよ」と言って渋るので、ヘルメットをこづいて立たせ「おばあさん座ってください」と言っておばあさんを座らせた。
目的の駅で降りる時、そのおばあさんはとても優雅にお礼のお辞儀を我々に返してくれた。

(注)マル戦:赤ヘルに白い線で縁取りのあるヘルメット。ヘルメットの前に「マル戦」の文字。当時は東京水産大学が拠点



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Episode.13 「内ゲバの余波 ―女学生救出―」 1970.5

 1970年4月、新学期が開始されると和泉校舎では70年6月闘争を控えて各党派間の内ゲバが激しくなった。

★写真は和泉校舎正門付近(2007撮影)

特にML派は明大での勢力拡大を目指して社学同と反帝学評と衝突した。 そのような状況下のある日、ノンセクトの学生と一緒に和泉校舎の正門方向に歩いていたら「助けてー!」という女性の悲鳴が聞こえる。
声が聞こえた方を見ると、1号館の前で反帝学評の青ヘル2名が女学生を引っ張っている。 この日は他大学の学生を含めた反帝学評の部隊が和泉を制圧しており、検問をしていたらしい。
 よく見ると顔見知りの文学部の女学生である。 後ろから駆け寄って声をかけた。
青ヘルには神大と書いてあったので、神奈川大の外人部隊と分かった。

私  「ちょっと待て!」
青ヘル「何だお前は」
私  「ノンセクトの学生だ。その子をどうするんだ」
青ヘル「MLのスパイだ」

 その子がMLのヘルメットを被っているのを見たこともないし、MLと行動していたとも思えなかったので

私  「この子はMLじゃない。MLの幹部のGと同級生なだけだ。 明治の反帝学評の○○に414B統一戦線(注)のYがそう言っていたと伝えればわかる。 反帝学評の評判を落とすようなことはしない方がいいぞ。」

と言うと相手も外人部隊の弱みか

青ヘル「すみません」
 ということで、青ヘルは謝り、女学生は無事解放された。
丁度本校へ行くところだったので、送りがてら一緒に駅まで行き、「こんな情況だから、しばらく大学に来ない方がいい」と忠告した。
 忠告の所為かどうか分からないが、私が卒業するまでその子を大学で見かけなかった。
あの女学生はその後どうしているだろうか・・・・

(注)414B統一戦線:1号館の414B教室に集まって活動していたノンセクト集団。黒ヘルに白地でVのマーク。明大の黒ヘル部隊の中でも各党派から一目置かれていた。



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Episode.14 「明大全共闘は何処へ・・・ 」 1970.前半

明治大学の全共闘は党派主導の全共闘だった。

★写真は明大全共闘結成大会(1969.6.23明治大学新聞より転載)

1969年当初、明大は社学同(ブント)の拠点校のひとつであり、私が入学した当時、学内は赤ヘル一色だった。
他の党派として、反帝学評(注1)、学生解放戦線(ML派)中核派がいたが、数はそれほどではなかった。
革マル派も1969年当初は数人見かけたが。その後は放逐されたようだ。
T部の学生会は社学同、U部の学苑会はML派が執行部となり、中核派は商学部自治会、反帝学評はU部法学部自治会を握っていた。
その党派連合にノンセクトの学生が集まり全共闘を結成していた訳である。

★写真は69.10.4全学集会で演台を占拠した全共闘系学生(1969.10.9明治大学新聞より転載)

69年6月21日の明大全共闘結成から9月5日の全国全共闘結成まではよかったが、 全明全共闘(T部U部統一の全共闘)の結成が物別れに終わり、 機動隊導入、ロックアウト後、70 年6月闘争に向けた党派間の主導権争いなどで69年後半から70年前半は学内でも党派間あるいは党派内の内ゲバで事実上分裂状態となった。
社学同は戦旗派情況派、叛旗派に分かれ、各党派間でも内ゲバが続いた。

私がいた和泉校舎でも、ある日は社学同、ある日はML派というように日替わりで各党派がキャンパスを武装制圧して他党派を追い出していた。
私はノンセクトとして各党派と対等につきあっていたので、内ゲバの影響は受けなかったが、 このような状況の中で、69年後半から70年6月闘争までの間 、べ平連(注2)や高校時代の仲間を中心としたグループに参加して集会やデモに参加することが多くなった。
それまで一緒に活動してきたノンセクトの仲間から「何で一緒に活動しないのか」と非難を浴びることもあったが、当時は明大全共闘から距離を置きたい気持ちが強かったということだろうか。
70年6月闘争終了後、全共闘は自然消滅し、大学内も停滞ムードに包まれた。
闘争の低迷を背景に管理体制を強化してくる大学当局に対し、ノンセクト学生が中心となり学内管理体制打破を目指した学内闘争を始めることになる。
私もその一員だったが、そこからが本当の闘いの始まりだった・・・・。

(注1)反帝学評:社青同解放派。明大の反帝学評は自ら「独立反帝学評」と称していた。反帝学評の旗に髑髏のマークを入れており、最初に見たときは「何だ?」という感じだった。 ビラも「仁義」シリーズというビラを作っており、メンバーには2・26事件で処刑された超国家主義者北一輝を評価している者もいた。
(注2)べ平連:明大のべ平連は「トロベ」(トロッキスト・べ平連)と呼ばれていて、黒ヘルを被りジグザグデモするなど、べ平連の中でも戦闘的だった。 和泉の旧学館の1階隅に部屋があり、常時10〜20名程度活動していた。



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Episode.15 「70年安保闘争の終焉」1970.6.23

 70年安保闘争はこの日で終わった。
集会の会場となった明治公園は3万人を超える人であふれていた。
私は高校時代の同級生を主体とした集団でデモに参加した。
明大全共闘は党派間の内ゲバの影響により、すでに崩壊したのも同然の状態であり、私としては明大全共闘を離れて別の形でデモをする道を選んだ。
デモに初めて参加する者も入れて10名程度。
黒ヘルメットを被って旗を持って会場の隅の方でアジテーションを聞いていたが、 東洋大学の女学生が2名、「私たちも一緒に入れてください。」といって飛び入り参加した。
会場周辺は厳重に警戒されているはずなのに、公園の脇にライトバンが入り、ML派が鉄パイプや火炎瓶を運び込んだ。
会場内ではML派の50名程の部隊(女性が半分を占めていた)が気勢をあげている。
デモに移ってすぐ、ML派が青山の交差点付近で機動隊と衝突した。(注)
遅れて現場を通った私たちの隊列にML派の学生が逃げ込んできたので、隊列の中に隠し機動隊をやり過ごした後、その学生は横道から何処かへ走り去った。
 途中でデモ隊が足止めをくったこともあり、デモの解散地の日比谷公園に着いたのは深夜になろうかという時間帯だった。
 有楽町から終電に近い電車で家に帰ったが、安保闘争もこれで終わったという思いと、肉体的な疲れですごく消耗した気分になったことを覚えている。

(注)この時の様子は若松孝二監督「性賊/セックスジャック」(1970年製作)のタイトルバックに出てくる。



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Episode.16 「本当の闘いはここから始まった」 1970.7〜12

 70年6月闘争が終わり、明大全共闘も自然消滅した。
6.23以降の学内はヘルメット姿もデモの笛の音もなく、学生達も何事もなかったように授業に戻っていった。
明大全共闘は他大学の全共闘(東大、日大は除く)と同様に党派主導の全共闘であり、 そこに終結していたノンセクト学生も70年安保闘争の終焉とともに姿を現さなくなってしまった。

★写真は明大全共闘「大学立法反対デモ」(1969.6.26明治大学新聞より転載)

当時の私には、「69年の明大全共闘単独デモ(駿河台本校からに日比谷公園まで)に参加した1000名の明大生は何処にいってしまったのか。」という思いがあった。
和泉の学生会館はロックアウト状態ではなかったが、水道も電気も入っていない状況であり、 学生運動の停滞を背景にした学内管理体制強化の象徴的な存在であった。
 誰かが声を挙げなければ学館ロックアウトに象徴される学内管理体制を打ち破ることはできない。
 そこで、同じクラスのN君などと数名で「学館解放」の学内デモをやることになった。
旗持ちとデモ指揮を入れても数名しか集まらず、2名で3列という貧弱なデモだったが、 笛を吹き学内をデモして1号館前でシュプレヒコールをしていると、2階から学生課の職員があわてて顔を出したが、 我々のあまりにも人数の少なさに安心したように笑っていた。
 こちらの力不足をあざ笑うような態度に、「今に見ておれ」と思った。 その時のくやしさがその後の闘争のバネになったといっても過言ではない。

70年安保闘争では政治目標が優先され、学内問題は置き去りにされた。
その後、党派は党派間(党派内)の内ゲバに精力を集中しているような状況であり、個別明大闘争を担う勢力とはなりえなかった。
そのため、学生会館問題に象徴される学内ロックアウト体制打破を目指した闘いは、 必然的に、全共闘に集結し、70年安保闘争終了後も活動を続けているノンセクト学生が担うこととなった。
私が属していた学生会館運営委員会も、社学同のメンバーが逮捕されたりして少なくなったが、 ノンセクト学生が中心となって活動を続けていた。
 学生運動の停滞期ではあったが、学内管理体制打破の一環として、 学館の状況改善を目指してサークル員とともに学内デモを繰り返し、12月にはやっと電気が入った。
しかし、学生会館も冬場にかけて寒くなってくると暖房がないとかなりきつい。
そこで、「学生会館に暖房を入れろ!」という1点で和泉の新学館と旧学館のサークルに呼びかけ、 ヘルメットなしで昼休みのデモをすることになった。
中庭で集会を始めると、学館からサークルの旗をもった学生が続々と参加し、70年安保闘争以来、久しぶりに100名を超える集会となった。
皆、この状況には怒っていたと思う。

★写真は69年10月和泉中庭デモ(1969.11明治大学新聞より転載)

その100名超のデモ隊で学内をデモし、1号館前で「学館に暖房を入れろ!」とシュプレヒコールをすると、 2階から学生課の職員が顔を出し、人数の多さにビックリし、慌てている。
安保闘争終了後の貧弱なデモで味わった屈辱をここで晴らすことができた。
その翌日、学館にスチーム暖房が入った。 条件闘争とはいえ、学校側の対応のすばやさに、運動の芽を潰しておきたいという強い意思を感じた。
 私が3年になり、駿河台の本校に通うようになった71年の4月には、和泉学生会館は正式に使用可能となった。



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Episode.17 「アルバイト先でもストライキ」1970年 冬

私も普通の大学生と一緒でアルバイトを結構やっていた。
闘争に明け暮れていた訳ではない。
今、思い出せるアルバイトは、デパートの配達センターでの内勤、交通量調査、 株券の裏書、歌舞伎町のビラ配り(エピソード11参照)、デパートのパン屋、デパートの立ち食いうどん店、 デパートの配送倉庫での商品の仕分け、運送会社の倉庫内の部品の仕分け、梱包会社での梱包作業、 装飾会社でのデパートや展示場での装飾作業、黒板の設置作業、ビル清掃、 居酒屋の皿洗い(新宿の西口にあった「秀新」という居酒屋で、元日大全共闘のマスターがやっていた。)、 中華料理店のウエイターなどである。
この中で、70年の春くらいから半年ほどアルバイトをしていた梱包会社がある。
社長夫妻と社員1名(Iさんという中年の男性)の3名でやっている会社で、 キャンペーン商品の梱包・発送作業を行っている会社だった。
戦力のほとんどをアルバイトに頼っている会社で、常時10数名のアルバイトがいた。
この社員のIさんは、昼休みが終わる5分前くらい前になると「さあ、やちゃおう、やっちゃおう」 といってアルバイトを仕事に駆り立てるので、すごく評判が悪かった。
ほとんどをアルバイトに頼っていることもあり、アルバイト集めに苦労していたようだった。 私は半年くらい続けていたので、アルバイトの斡旋も頼まれるようになり、 友人の知り合いのA君がアルバイトに来た。
彼は、前衛舞踏をやっているような風変わりな人で、いつも帽子を被りながら仕事していた。
社員のIさんはそれが気に入らないらしく、「帽子を脱げ」と言っていたが、彼はまったく聞く耳を持たなかった。
ある時、仕事が大量にあるので、会社ではなく倉庫で作業をしている時、Iさんがいきなり彼の帽子を取り上げ投げ捨てた。
その行動にアルバイト全員が反発し、Iさんに謝罪を求めたがIさんは突っぱねたため、アルバイト全員が仕事をボイコットした。
結局、その日は仕事ができず、アルバイト全員(23人)がクビになった。
アルバイトには新人も多かったが全員団結して対応した。
今では考えられないかもしれないが、1970年という時代の雰囲気を伝えるエピソードの一つである。




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