●学館Q&A


Q.1 「当時の学生会館はどこにあったのでしょうか?」
Q.2 「学生会館は誰が運営していたのでしょうか?」
Q.3 「学生会館運営委員会の組織、当時どのような活動をしていたのか内容を教えてください。」
Q.4 「当時、学生会館を巡る学生側と大学側の争点はどのようなものだったのでしょうか?」

Q.1 「当時の学生会館はどこにあったのでしょうか?」

駿河台本校には新学生会館、旧学生会館(8号館)、サークル室や二部自治会室があった4号館。和泉校舎には学生会館、木造2階建ての部室センター。 生田校舎には学生会館がありました。(駿河台本校案内図和泉地区案内図参照)



○学館Q&ATOP

Q.2 「学生会館は誰が運営していたのでしょうか?」

各地区の学生会館運営委員会が運営していました。学生会館運営委員は、学館特別委員会の推薦と学生会(一部自治会)と学苑会(二部自治会)の承認により任命される仕組みになっていました。 学館特別委員会とは、学生会館の設立に向け、昭和38年10月に学生会と学苑会中執により作られた組織です。
  私の場合は、和泉学館運営委員会室の前の運営委員募集の貼り紙を見て委員になったのですが、特に推薦とか承認という手続きはなかったように記憶しています。



○学館Q&ATOP

Q.3 「学生会館運営委員会の組織、当時どのような活動をしていたのか内容を教えてください。」

自治会でもなく、サークルでもなく、学館の事務的な運営を行う組織でした。 例えば、練習室の貸し出し、外からの電話の取次ぎなど。しかし、単なる「管理人」という訳ではなく、学生会館運営委員会としての活動も行っていました。
69年10月の機動隊導入・ロックアウトにより、和泉地区では学館が閉鎖されていましたが、学館の実力開放、電気も無い状態でのなし崩し的使用を行い、 70年秋からはサークル会議を開催して電気、スチーム暖房を入れるための学内デモを組織、71年4月からは正式使用を勝ち取りました。 しかし、正式使用ということでサークルの活動場所が確保されたことから、学館という場をどのように使い、何を創造していくのかという議論が始まらないまま、運営委員会活動は停滞していきました。
駿河台本校学館は69年10月以降、閉鎖状態が続いており、本校学生会館運営委員会の活動は休止状態でした。71年6月に生田、和泉の学生会館運営委員会と二部学館解放委員会、 69〜70年にかけて和泉学館運営委員会活動に関わったメンバーが学館特別委員会を再建し、本校学館開放に向けた活動を開始しました。 71年6月29日、学館開放闘争により本校学館を囲っていた柵を取り外し、1ヶ月程度自主管理を行いましたが、夏休みを控えた8月1日、機動隊が導入され、再閉鎖となりました。
学館開放闘争を進めていくには学館特別委員会だけでは限界があるため特別委員会を解消し、サークルや各組織を含む学館解放委員会を組織し、活動を進めることになり 、71年10月19日に学館開放に向けた集会を開催しました。また本校学館・8号館のなし崩し的使用による自主管理を行ってきました。
一方、文化部連合会が公的団体として大学側と交渉し、学館の補修工事や学館開放の条件など交渉を進め、72年には学館に電気が入るなど一定の成果が上がりつつあった矢先、 73年1月に、大学内の混乱を理由に4号館も含め再閉鎖されてしまいました。



○学館Q&ATOP

Q.4 「当時、学生会館を巡る学生側と大学側の争点はどのようなものだったのでしょうか?」

まず学生側の主張ですが、1969年の明大全共闘結成の時には、「大学立法粉砕と6項目要求」というスローガンを掲げていました。その6項目要求の中に「学館の管理運営権の獲得」という要求が含まれていました。
その要求の内容は「学生会館は自己変革、自己教育、自己研究を中核とする総合的な自主活動を発展させ。権力の抑圧に理論的・実践的に闘いを形成していく砦としてある。」という認識の基に、 「退去命令など学館使用に関して大学側が介入しないこと、学館の設計、施工、予算編成の主体は学生にあること」を認めるよう要求するものでした。
一方、大学側は「学生会館は学生の自由な学習・討論の場、心身の憩いの場、大学における教育の一環として人間形成=自己教育の場として位置づけられ、その使用方法が生命・身体への危険や教育研究への著しい侵害となる恐れがある場合は、 大学の閉鎖や退去命令を出す。また、設計、施工、予算執行は大学の責任行為であり、権限を学生に譲ることはできない。」という主張でした。

その後、全学バリケードスト、機動隊導入、ロックアウトという流れの中で、各地区の学生会館は大学の主張どおりに閉鎖されました。
和泉と生田の学生会館は71年4月に閉鎖が解除され正式に使用が認められましたが、駿河台本校の学生会館は中大や日大にも近く過激派学生の拠点となること、 学館特別委員会の呼びかけで学館の破壊活動が繰り返されていることなどを理由に閉鎖が続きました。

<参考資料>
大学立法粉砕と6項目要求(全共闘連絡会議
学生会中執などの6項目要求について
駿河台学生会館は何故閉鎖されているか
昭和46年7月12日付質問状に対する回答
当面の休講と駿河台学生会館・8号館・4号館の閉鎖措置について
昭和47年度文化部連合会活動報告








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