文連Q&A
Q.1 「当時の文化部連合会の組織と活動内容を教えてください。」
Q.2 「文連を構成するサークルはどのくらいあったのでしょうか。」
Q.3 「当時の文連巡る状況はどのようなものだったのでしょうか。」
Q.4 「昭和47年度本校文連の活動内容を教えてください。」
和泉、生田、本校にそれぞれ文連組織があり、和泉と生田は支部扱いとなっていました。
文連執行部の構成は、委員長、副委員長(2)、会計局長、会計局次長、事務局長、事務局次長、企画部長、企画部次長、渉外局長、渉外局次長
、厚生局長、厚生局次長、情宣局長、情宣局次長の15名体制でした。
活動としては、学生会費の各サークルへの配分、講演会の開催、サークルのリーダーを集めた合宿の開催、サークル会議、大学祭での活動などです。
文連Q&ATOP
本校文連の構成サークルは71年当時で86ありました。サークル名や学生会費の配分などは学生会費配分表をご覧ください。
○ 学生会費配分表
文連Q&ATOP
各大学の文連も同じような状況だったと思いますが、明大文連も1970年(昭和45年)までは党派の影響を受ける組織だったため、使途不明金などの問題が発生し
、昭和46年度文連委員長には学生運動とは縁がなかったK氏が就任しました。
K氏は文連組織の建て直しを進めるとともに、本校学生会館のロックアウト問題に対して大学側に質問状を提出するなど、地道な活動を行いました。
一方、学館問題や明治大学新聞を巡る問題に積極的に関わっていたサークルが「明治大学文化サークル連絡会議」という連合体を昭和46年秋に結成しました。
昭和46年度文連執行部に参加していたメンバーと、「明治大学文化サークル連絡会議」を構成していたメンバーが中心となって、昭和47年度本校文連の執行部が誕生しました。
○ 文連の質問状に対する回答
○ サークル戦線
文連Q&ATOP
文連活動としては、47年2月の文連合宿を経て、「文化」の問題を考えていく、「学館」の問題を考えていくという2つの問題意識を持って活動を行うことになりました。
主な活動内容は以下のとおりです。
昭和47年 2月 文連合宿
昭和47年 4月 入学式での情宣活動
昭和47年 4月 和泉校舎で新入生歓迎映画会開催
昭和47年 6月 和泉祭で深夜映画会企画・開催
昭和47年10月 駿台祭実行委員会での活動
昭和47年11月 文連合宿
昭和48年 2月 文連総会
昭和47年度文連執行部は、公的団体としての側面と、明大文化サークル連絡会議(文サ連)の構成員という側面の2つの側面を持って活動することになりました。
文サ連は駿河台学館のロックアウト問題などについて活動していましたが、47年当時は学館もなし崩し的に使用(8号館1階の明治大学新聞の部屋から8号館の上階に行くことができたし、
8号館から駿河台学館へは連絡通路で出入りすることが出来た。)しており、文サ連活動は停滞している状況でした。
そのようなこともあり、公的団体として活動に重点が置かれました。
文連執行部といっても、皆が必ずしも同じ方向性を持っている訳ではありませんでした。
入学式での情宣活動で、文連としての統一的ビラを作らず、個々人が別々にビラを作成したことにも現れています。
また、昭和48年2月の文連総会での活動報告の中でも、4種類の総括を併記しています。
このように書くと、まとまりのない組織だったように思われますが、そうではありません。
大きな流れとしてまとまっていつつも、執行部を組織する個々人の活動を意見の相違があっても認めていく「場」だったと思います。
詳しくは、エピソードの中に書きましたので、そちらをご覧ください。
<参考資料>
○「入学式のビラ(1972.4)」)
○「文連と映画の関係(1972春)」
○「最後の文連合宿(1972.11)」